焼津で沿岸漁業を始める

1940年 豊国丸(88t型/木造)

1941年 太平洋戦争 開戦

1944年 第二豊国丸(51t型/木造)

1945年 終戦

1948年 豊國丸(37t型/木造船) 建造

1949年 豊國丸(85t型/木造船) 建造

1951年 豊国丸漁業生産組合 設立

1952年 (マッカーサーライン 解除)

1956年 第三豊國丸(90t型/木造船) 建造

1958年 第七豊国丸(199t型/鋼船) 建造

1960年 橋ヶ谷金次 代表理事組合長 就任

 

 

 

 

 

1963年 第五豊国丸(149t型/鋼船) 建造

1965年 (マリアナ海域集団遭難事件発生)

1972年 第八豊國丸(344t型/鋼船) 建造

1977年 200海里排他的経済水域 設定

1993年 第八豊國丸 事故により船体放棄

1994年 代船として中古船購入(1年間使用)

1995年 第八豊國丸(449t型/鋼船) 建造

2007年 橋ヶ谷長生 代表理事組合長 就任

2007年 第八豊國丸(449t→483t)増屯

2012年 南食品(株)と相対契約

2016年 MSC漁業認証 取得

2021年 現在に至る。

 

 

 

焼津かつお漁業史

水揚げ日本一の焼津(カツオ一本釣りとマグロ延縄漁業)

焼津では江戸時代からカツオ漁が盛んで、明治末期から大正時代になると、動力漁船による漁場の拡大が進み、水揚げも増え大変忙しくなり活気にあふれていたが、第一次世界大戦中の好景気が収まり、昭和に入ってから昭和金融恐慌が起きると、魚価が急落し、漁師たちの収入も当然の如く激減していった。
その損失を補うために船の鋼船化・大型化をさらに推し進め、より遠くの漁場を目指すためにディーゼル機関も導入し、無線機器や航海計器などの設備も整え、南方漁場はマリアナ諸島やフィリピン・台湾近海などにまで漁場を広げていったが、大きな船の建造費は高額で、経費も多くかかるため経営は圧迫されていった。
さらに、太平洋戦争中には焼津の漁船も徴用されて多くの漁船を失うことになったが、戦後、徐々に回復し、戦前からあった水揚げ施設や周辺加工工場など有利な条件を追い風に昭和31年に水揚げ高日本一となった。
昭和20年代~30年代前半にかけて焼津の漁船は春から夏まではカツオ一本釣り漁、秋から冬にかけてはサバ漁やマグロ延縄漁という兼業船が主力で、操業していましたが、1952年(昭和27年)のマッカーサーライン撤廃に伴い沖合から遠洋への政策のもとカツオ・マグロ兼業船であった漁船たちは、マグロ延縄船へと切り替わりが進み、カツオ一本釣り漁船は減少。
その後、昭和40年頃、カツオ一本釣り漁船は200トン以上の漁船が増え、さらに船の活魚艙・冷凍設備等が開発されたことにより、遠洋漁場へも出漁でき、周年操業が可能となったことで、カツオ一本釣り漁船は完全に専業化していった。
昭和45年には遠洋船は39隻、47年には92隻となり増隻が如実に示され、さらにカツオは資源的将来性があるとして南方漁場の開発が進み、マーシャル諸島・ギルバート諸島近海へと広がり、魚価も好転し漁業として軌道に乗るようになっていった。
昭和50年頃には遠洋カツオ漁船は全国で300隻にまで増えたが、これ以降、各国で設定された排他的経済水域(200海里問題)が設けられたことにより漁場が狭まり、ここから遠洋漁船は衰退の一途をたどってしまうことになります。

 
 
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